三浦市の悲話と伝説
(神奈川県三浦市)

今から500年の昔───

神奈川県の三浦半島には、平安の昔より続く 三浦一族 という豪族が勢力を保っていた。

その中でも、特に有名なのが、この二人。(英雄百首より)

 

三浦一族最後の首領といわれる、三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)と、道寸の子である三浦荒次郎義意(みうらあらじろうよしおき)である。


この物語は、道寸父子と、彼らを愛した人たちの忘れ得ぬ物語である。







三浦半島の南に近い、三浦市。
地理的にも真ん中に近いところに、引橋という交差点がある。
ここから少し南に下ると、今では立派なコンクリートの陸橋になっているが、ここが紛れもない「引橋」のあったところ。

  


三浦一族の本拠地である新井城(現在の油壺マリンパークのあたり)に行くには、どうしてもここにかかった橋を渡らねばならなかった。
しかし、いざ敵が攻めて来る時には橋を引いて渡れなくしてしまうので、引橋という名前が今でも残っている。

このころ、この引橋の近くで茶店を出す老夫婦がいた。
この近辺でも温厚で柔和なことで名前を知られた老夫婦は、行き来する商人や武士に愛され、なかなかの繁盛ぶりだったという。

時は過ぎ、三浦一族は小田原を本拠とする北条早雲ひきいる北条一族と対立を深めていく。
永正九年(1512年)、平塚の岡崎城を奪われた事をきっかけに三浦半島まで追い詰められた三浦一族は、網代にあった新井城に立てこもり、最後の抵抗を始める事となる。

そんなおり、この地域は大勢の武士団はもちろんの事、彼らを目当てに大量の武器や食糧、医薬品を携えた商人が訪れ、大変な賑わいとなった。

老夫婦が営む茶店も繁盛を極め、また客の話題は自然と新井城の攻防戦の話となるにつれ、人の良い老夫婦は見知らぬ旅人にまで新井城の話を、自慢げにすっかりしゃべってしまった。
その中に、北条側のスパイが混ざっていた事など、戦など知らぬ老夫婦には予想だにできなかった事であったろう。





三浦一族の最後のとりでとなった新井城は、三方を海に囲まれ、つながる陸地ですら堀や柵で幾重にも囲まれ、敵を寄せ付けない名城であった。

さすがの北条早雲も攻めあぐね、城を取り囲んで食糧を絶つ「兵糧攻め」に取り掛かる。
さすがの新井城もこれにはかなわず、三年間たてこもったものの武士たちの食べるものはおろか、矢や衣服、暖を取る燃料など、全てに事欠くようになっていった。

それでも、三浦の血を絶やしてはならぬとの思いから、命からがら脱出した道寸の妻は、わずかばかりの従者を連れ、身重な体を引きずりながら戦火の中をぬうようにして逃げ惑った。

ある時、現在の真光院という寺の脇にかかる急な下り坂を見つけ、この坂の下にある沢水を求め、転がるようにして下っていった。

  


この坂の途中には名主である高橋家があり、別名「なも田」と呼ばれていた事から、この地の者はこの坂を「なも田坂」と呼び、三崎の遊郭へ通う若者は

 三崎通いと なも田の坂は
  親の意見じゃ やめられぬ

 ─────と大きな声で歌いながら、この坂を歩いたとの事である。

この坂を下りた奥深い渓谷には水が流れ、やっと水を得た道寸の妻であったが、それまでの無理がたたり、あろう事かその場で死産してしまった。

妻は大いに悲しみ、川のたもとに我が子を埋めてねんごろに葬ると、若き生涯をこの淋しげな小川で自害して果ててしまった。

後世になり、もし妊婦がこの小川の脇を通れば、必ず同じお産の苦しみを味わい、また産後に亡くなった女性は、あの世でも同じ苦しみに遭うという俗説が広まる事となった。

今では、この小川はフェンスに囲まれ、周囲には住宅が立ち並び、往時を偲ぶすべもない。

  


しかし、かつてはこの川辺に「南無阿弥陀仏」と書かれた白い旗が野ざらしのまま立てられており、通る人々がこの旗に水をかけ、「かけておくれよ川ざらし」と唱える姿を太平洋戦争中まではよく見かけたという事である。

  

  









その頃、なも田坂からほどなく離れた、今は高山と呼ばれる高台では、新井城を眼前に見下ろす北条方の軍勢が陣を張っていた。

対する新井城では、食糧は尽き、矢は折れ、兵士の士気は下がる一方である。
もはや戦どころの話ではなくなりつつあった。


───もはやこれまで───


そう覚悟を決め、新井城から敵陣に切り込んだ一人の男がいた。
その名も三浦荒次郎義意。

三浦道寸の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸、今にして2メートル27センチ。
当時としてもかなりの巨漢であるばかりか、筋骨隆々として髭は濃く、八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりである。

その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない。

「あの男を斬れ、褒美は思いのままぞ───」

叫ぶ武者の叫び声もむなしく、北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかなかった。

・・・が、その中でも豪勇の誉れ高い若武者四人が先陣を切り、荒次郎義意に立ち向かっていった。
しかし、北条の中でも豪勇で知られた四人ですら、たちまち倒されねじふせられ、荒次郎義意の刃はこの四人に向けられた。

すっかり覚悟を決めた四人であったが、「その武者ぶり、まことに天晴れなり。いまここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら、必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しんみ、許したと言われている。

この時に、この四人はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったのであった。
しかし、それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き切って自害。

道寸義同率いる三浦一族は、そろって切りあい、城の崖下の湾に身を投げ、入り江の海水は血と油で真っ赤に染まり、油壺の名の由来となる程であった。

この時の四人は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と、道寸父子の後を追い自刃してしまった。

この哀話を聞いた村人達は、四人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者四人をねんごろに弔ったと言われている。

  

  


往時はこの辺りは雑草が生い茂り、人も馬も近寄ると祟りがあると言われ、近寄るものは誰一人としていなかったという。

しかし、時は流れ、近くには住宅も立ち並び、戦場であったことを偲ぶよすがも無いが、この義士塚からは昔のまま新井城を望むことができ、夕日に映える草や木々にも、何か人の世の哀れさが感じられるのである。

  









三浦一族が滅び、この地は北条家のものとなった。

引橋のたもとの茶店では、老夫婦が自責の念にかられていた。

「誰かれかまわず、よそ者にまでお城のことをしゃべってしまった。そのせいでお城は落ちたのだろうか。もしそうなら、三浦のお殿様に申し訳ない。申し訳ない───」

やがて、老夫婦が顔をほころばせつつ自慢げに新井場の事を話した相手が北条家のスパイであった事を知ると、老夫婦は良心の呵責に耐えかね、おろかな自らを嘆き悲しみ、せめてものつぐないにと心中してしまったのである。

のちになって、この老夫婦の非業の最後を知った里人は、老夫婦を不憫に思い、その霊を慰める為に、茶店の跡(現在の三崎警察署の前のバス通りを登ったところ)に夫婦地蔵を祀り、ねんごろに供養したという。

  


そして時は移り変わり、道には自動車の砂ぼこりが立ち込める平成の世になっても、古ぼけたこの地蔵の前からは、新しい花が絶える日は無い。

  

この花を見るたびに、なんだか遠い日の興亡と人間流転の無情感が、そくそくと思い出されてくるのである。








それから500年の歳月が流れた。
夕日きらめく油壺の入り江は、ただヨットが浮かぶのみの静かな入り江となった。
夏には海水浴客が嬌声を上げるが、それもただ一時の事である。

かつて、この地で繰り広げられた人間の哀話。

いつまでも人々の心に刻まれ、忘れられる事なく語り継がれていくことを願うばかりである。


  


《参考地図》

  




トップへもどる